2012年01月29日

つぶやき3

……
私という病。
私は、nobodyなのに。ルネサンスで私が発生したのではない。ルネサンスは私を突破したのに。近代で、私は私で止ってしまった。

星星のように均一と見なせる多数のこの世の果て、それが科学の対象だった。どの星雲も同一と見なせなくなったが、均一がその向こうに遠ざかっただけだ。科学の対象は、いつも多数の均一なものたちだ。科学教育を入念なプログラムに従って注入されたとしたら、感情の付け入る隙があるだろうか。均一な光景に感情は誘発されない。科学は砂漠を対象にしている。生物学がそうでありうるか?生物を砂漠と見なす無理から生物学が出発しているとしたら?

意味が(蛋白質ではなく)遺伝子に伝わらないという意味では、セントラルドグマは正しい。意味のレベルで、獲得形質は遺伝子に影響を及ぼさない。意味とは人間が勝手に付与したコトであって、付与されたモノは、コトとは関係がない。では、本来の意味でのセントラルドグマは正しいか。
蛋白質ではなく、刺激が遺伝子に影響を与える可能性があり、その時は、ドグマは崩れる。(もちろん私は、意味、蛋白質、刺激の順位ではなく、蛋白質、意味、刺激の順位の可能性を示唆しようとしている)習慣が遺伝子を変える可能性があるのは、習慣が絶えざる同種の刺激であり、それは宇宙線の被爆と同様であるからだ。習慣、さらに生存形態そのものがストレスだ。生存の被拘束性。生存を適応させるべくかかる環境圧は、本来中立の遺伝子の揺らぎのランダム発生を偏らせる。
環境は常に偏っている。ランダム発生は、それによって偏った結果をもたらす。それに従属する。発生源が物理的でなく生物的であり、生命維持の至上命令があるので、環境に適応すべく既に偏らんと準備している。初めから生命の側が偏っていた。

エコがモラルといわれたのが何十年も前だ。

大日如来が女を抱いていた。

ある男の方法
彼がたくさんの文章を書けた理由は、図書館から借りた本を常に読み続け、その際触発された知見を書き連ね、原典から知見へ(これだと畢竟書評やメモになってしまう)ではなく、知見から原典へと書き方を転倒し続けたことにある。原典が引用になる。主客転倒のトリックだ。独創性は擁護された。
評論の書きかたでも。
読書の最中や後の感想と展開を先に書く。
次に、引用として、読んだ相手の批判を書く。
ドイツ人はそうやって前世代を乗り越えようとしたかの疑いがある。
マルクスが典型的だ。


津波で何故これだけ多くの死者が出たか。死者の九割は水死だ。
逃げなかったからだ。
またか、と思ったからだ。災害に向けての訓練がマイナスに働いた。
何度もの小規模の地震と津波に馴らされてしまうのだ。
警報を聞くと安心するという倒錯者さえ生まれたのだ。
死んだ人間を責めているのではない。人間はそういう者なのだ。狼少年も、村人も、責められない。

プライヴァシーとそうでない事柄との境界線は何か。商品化することに合意した事柄とモノがなす世界が公的世界。商品化できない世界がプライヴァシー。後者を前者が蹂躙すると悲劇が生まれる。
かつて、プライヴァシーがある限り文学があるだろうと思っていたが、公的世界と、個人性を離れた科学や無意識において、文学がありうると思うようになった。

インディアンが、南北アメリカにいた野生動物を殺戮、絶滅させていったように、(ファントマ)、みんなが今やインディアンになって……

私生活で、たとえば、子供がよくない成績をとってきたとき、公の立場で、叱るのと、私の立場で、一緒になって、どうしたらいいだろうかね、と考えるのとでは、決定的に違う。公を、被害と感じてもよい。敵と考えてもよい。親子で立ち向かう姿勢を確保できるのか。
同様に、人類に対して、まわりの生物の立場からする提言が正しいか、生物の外からの、宇宙からの、公の立場からする提言が正しいか。

死に個性はない。従って、死の立場から、個性、限定的な一生を評価できない。死は個性を弁別できない。転生は幻想であることがわかる。死の一般性、無機質性に転落した、個でない個を、再生できるはずがない。

非合理であっても、思いがそれを凌いだ。
その思いとはなんであったか。

歌とは、意識が出会う最初の物だ。(小林秀雄―本居宣長)
大江は、歌を、モノと言葉の中間項であるかたち、文体と主張する。

マイケル・サンデル これからの正義の話をしよう、より。
富の偏在を不公平と考え、富裕者へ課税すべきだという見解に対して、労働や投資意欲が減退し、再配分の原資が減少する、或いは、市場の制約は自由への基本的権利に対する侵害である、という二通りの異論が存在する。 あなたはどちら?              

私の態度。
私は、富裕者への課税を支持し、その実現のために私たちが満たさねばならない条件を示そうと思う。問題の発生源は経済的なものであるが、二つの異論に対する異論をモラルの観点から展開したい。つまり、条件とは、道徳的な条件であり、それを考察することが、サンデルの問いかけに応えることにもなるだろう。
累進課税による富の再分配が、労働や投資の意欲を減退させるという意見は、「税金を払うために一年一冊は書かねばならないが、それ以上書けば国税庁を太らせるだけの愚行」(アガサ・クリスティ)という発言にもあるように、現実味を持っている。クリスティのような個人だけでなく、企業や投資機関が、集団として経済活動にブレーキをかけるならば、富の総量は減少するだろう。
なぜ意欲が減退するのか。それは、労働の目的が、金銭の私的な獲得であると信じて疑わないからだ。金銭が、公的なものに、顔の見えない他者への無償の供与に成り変っていくことが、我慢ならないのだ。労働とはなんだろうか。私的な欲望を満たすための手段としての金銭の獲得とのみ理解しているなら、私たちは労働のカヴァーする広大な社会性を見逃しており、労働が伴う責任を負っていないことになる。
労働の波及効果は計り知れない。作物、製品、サーヴィス等は、商品となって社会化し、連鎖反応を伴って世界市場に出回る。その効果は、人にも事柄にも現れて、労働する側の予測を超える。そんな労働の報酬が、私的な満足のみに費やされることに、バランスを欠いた偏りが臭わないだろうか。
労働は本来奉仕を含んでおり、自らと自らの家族のための利益と他者の利益との分別は作為的である。多くを人に与えられるならばさらにもっと多くを、と労働にいそしむような、他者の喜びを動機とするモラルを私たちが自らのものとできる道を探るべきである。
リバタリアンの主張に対しては、それが間違いである明白な証拠がある。リーマンショックはリバタリアンがもたらした。しかも世界中で起きた悲劇の責任をわずかでもとった者はいないし、言葉による謝罪すらしていない。彼らの道徳的退廃は明らかだ。
他人に同じことをする権利を尊重するとは、できない他人にとっては言い逃れにすぎない。特権的な専門知識とパテントと企業秘密に守られて、圧倒的な不平等取り引きを、規制のない間に強行するのが、自由への基本的権利なのか? 自由とはそんなものなのか? 
自由を語るとき、もっともっと注意深くなければならないことを、私たちはこの経験から学んだ。機会が平等であることを繰り返し確かめ続けること、格差を生じた場合は最下層の者が最も苦痛が少なくなるように周りが配慮すること、自由の行使のための力を既得権にしないこと、独占を廃し公開を心がけること……。
労働と自由について、私たちはいつの間にか、退廃的で矮小で暗愚な道に迷い込んでいた。この二つに根本的な反省を加えることによって、見えない他者への奉仕としての労働、悲劇をもたらしかねない危険な言い訳としての自由を見つけ出せた。その結果、課税という経済問題は、人間の担う道徳的課題の一端として、その実態を明らかにした。その道徳的課題とは何であるのだろうか? ひと言で言えば、エゴイズムからの脱出である。それは、人類が、目先の利益にとらわれずに、ひとつの共同体として生き延びていくための重要な条件のひとつであることに疑いはない。共同体から逃げ出せるとか、共同体を指揮できるとか、騙せるとかは、幻想であり犯罪である。            

秋山の文学臭の陰に、正岡子規が隠れている。

狂気に走らせないための抑制機構が理性であり、理性に走らなせないための抑制機構が狂気だ。狂気の力強いブレイクは、理性をほしいままにさせない。

自然には、偶然も必然もない。

倫理=論理=生理という、黄金律。隠されていた、行動と存在を結ぶ原理。

自己否定は禁欲的であるかのように見える。そうではないことを、大いなる解放であることを、私はネヴァーランドの、水晶を放下する場面で描いた。
ニーチェのいう禁欲主義は、生そのものを敵視する。力の源泉を閉塞させるために力を利用している。自身を分裂させる分裂症の現前である。断末魔の苦悶のうちに凱歌あがる。十字架、胡桃、光は禁欲主義的理想にあっては一つのものだ。この主義は、自己矛盾である。生きるためになぜ己を殺すか。
自己を否定することと、生を否定することは真っ向から対立する。

ニーチェは、一つの眼、(私の持つ概念(形式としての我、パースペクティヴとしての我。それはこの世界で唯一つだけしか存在しない。)に表面上は似ている、)を、認識自体、純粋理性として虚構と見なす。方向性、能動性を持たないのに視が何者かの視となるような眼を。彼は、ただ一個の遠近法的視、ただ一個の遠近法的認識だけがある、という。
なんと間違っており、なんと正しいことか。
現実に苦行と黙殺によって生を否定することなく、シミュレイションを行った結果として、内容としての我を分離し(これに意志を、集団的な流れの結節としての意志を入れるべきだろう。要考察)、ハードウェアを抽出した場合、それは普遍的な一個のパースペクティヴ装置であろう。論理的概念的に存在する。その存在の普遍性は、彼の一つの眼のそれに酷似している。

自己を否定するとは、今と矛盾し、今を告発する、一刻前の自己を批判し、正に対する反を創ることだ。このとき大切なのは、合を予想して、反をあらかじめ歪めないことだ。理念を恣意的に、ロマンティシズムから、弱気から、常識から等々から、前もって作り上げて、それをジンテーゼと見なして、批判を茶番にしないことだ。
自己否定は、自己侮蔑の泥沼に停滞して没することを拒否することでもある。放置して死に至るよりは、結果はどうであれ外科手術を自らに施す立場だ。

禁欲主義的理想ではなく、ネヴァーランドに描いている健忘症と日常的酩酊が、退廃しつつある生の、防御本能と救治本能から生じる。日常の絶えざるリセットが生存の条件となる。局部的な傷口、一器官の疲労が存在し、それを治癒すべく残っている本能が死に抗して闘っているのだ。健忘症と酩酊はその手段だ。酩酊は彼岸への憧憬を強めさせるから、甘んじて戦死するのだ。
退廃に陥る前の戦いと失敗の歴史が、大長征だけとは、あまりに貧困である神の手が働いた疑いがある。自死戦死が共同体を再生させる。

文字が必要になった理由。当然、政治と経済の発達にしたがって、証拠の必要ができたからだろう。文字は、紙や羊皮紙の上に口語を翻訳することである。翻訳は、他者との交渉のために必要となる。つまり、文字は、口語のすでに存在している共同体内で、成員を敢えて他者と見なす際に必要となった。

原爆を落とさなければ、死者はますます増えたであろう。戦争をやめるために、原爆を落とした。
アメリカの教科書に書いてあるこの論理を、そのままナイーヴに信じて己の意見としている愚かな者たちを軽蔑する。中国人、韓国人の日本に対する先入観とはやや異なるが、教科書に書いてあることを無批判に自分の意見とする愚かしさを軽蔑する点では同じである。
この論理は、しかし、ありうると、認めておいたほうが日本人にとってはいいのではないか。
この論理を日本人が使うときのために!

初めに固有名詞があった。普通名詞ではない。個別を見て、すぐそれが属する類を想定することはできない。普通名詞は、固有名詞が、繰返し生死を繰り返した後に、生じる。それは、死なない。記憶を前提とし、抽象能力を前提としている。太郎が生まれ、死ぬとともに太郎という固有名詞も死ぬ。次郎が生まれ、死ぬとともに次郎という固有名詞も死ぬ。この繰返しの結果、男子、というような、普通名詞ができる。
普通名詞を先にして、固有名詞をその応用とするのは、歴史過程を教育によって転倒させている。

テレビ芸人の楽屋落ちに、客たちは愛想笑いをしている。力関係がいつから逆転したのか。

自然。ものすごい無意味。富士山。鹿や狼と同じの、大きな疣痔(僕には、左手で触った限りではない)。のっと突き出た活火山。

毒蛇は急がない。藤子不二雄A。NHKで観たな。
なりたい毒蛇!

雲の造型結果を延々と生涯にわたり見てきた。その構成要素は、水粒(氷も水である)である。絵画もまた、粉塵で出来ている。
さて、生き物も、人間もまた、水と粉塵でできている。

死は、どちらにとって、重大事なのか。死に行くものか、看取る者か。
死ぬ者は死を体験できない、死は外部にある。体験できないものの価値評価を当人は出来ない。看取る者は、重大であると、心底から思っているか。
例えば、こいつより長生きできたと凱歌を上げる者がいないはずはない(昔の英語教材にそのような例を挙げている文章を見た)。
では、悲しみは何を意味するか。悲しい振りをする者を除いても、悲しむ者は多い。
まず、自身の欠落を嘆いている者がいる。よそ事ではない、実質的な欠落であるから、悲しい、というよりは、惜しい。
次に、うん?、次に、を、言っていいのか?

狼と異なり、犬は短く吼えることが出来る。人間の、言葉を模倣したかもしれない。狼は、人間を食うために、犬となって身をやつして、人に近づき、ついにペットとなって、人間の安心を勝ち得た。猫も同じ戦術を使った。
どちらも死んだ主人の死体を食う。私は愛するペットに食われるのにやぶさかではないが。

自分がハクチである(と言われている)ことがどんなに美しいことか。自分では見えないが。

ワタシ、はなく、様々のものの束、バンドルをワタシと見ているに過ぎない、という言説は間違っている。バンドルの各要素である、様々なものの一つ一つ、ストークのそれぞれは、小さなワタシ、小人である。個別の小人の存在が前提となっている。質的に異なる、意味が異なるストークのバンドルでなければならない。生物をなすストークとしての細胞、細胞をなすストークとしての蛋白質、蛋白質をなすストークとしての分子、原子、クォーク、これらにもストークという言葉を使っていいのか。

空集合から、括弧を用いて位置を作り、オメガまで、途中の濃度ギャップを乗り越えて、無限まで構成可能だ。しかし、構成的ではなく、歴史的には、たくさんの中から一つをつまみ出して一が出来たのだろう。ヒマワリの種が散乱しているとき、つまみ出した一粒が一、それを元に戻すと、いっぱい。一は消えたのだ。ゼロの発見はさらに時代を下る必要があった。多、一、ゼロ。存在が、無に、先行していた。もしかして、無は、幻想かもしれない。

同一と見なされるものの集合に対して、一個の語を対応付ける。
その集合の要素に対して、自然数を対応付ける。
語同士は互いに異なる。互いに差異がないものに番号を打つ。

狼は生後十三日以内に、人が育て始めないとなつかない。

同型な複数のものたちを同一化すること(視覚の節約)により名前(しるし、符丁)が生じる。最初期には、これ自体に意味はない。好奇心と戯れによって生じる。後に、名前同士は他者同士であるが依存者同士でもあるようになる。上の階層での、名前たちの間での同型なものたちを同一化することによりまた名前が生じる。畢竟、名前づけ=認識=分類である。

子どもによる語の発見は、系統発生を繰り返す。

輪廻転生について。
死んだのが確定するので、その生まれ変わりがありうる。どのようにして確定されるのか。何が確定するのか(確定行為の主体の問題)。
これがあいまいだと、間違って! 死んでいないのに次が出てきて、二者並立してしまいかねない。
ところで、かぐや姫が、神薬を飲むと過去を忘れるように、よみがえると前世を忘れているとする。この時間軸に沿った認識不可能性を、空間軸にも適用すれば、並立が存在しても矛盾が生じない。他人の認識不可能性は、空間的転生の後の忘却によると考えられる。従って、忘却が解消すれば、すべての人は同一人であったこと、一人が空間的に転生したに過ぎなかったことがわかる。我は世界に一人しかいないという命題に再会する。

すべては空である、という感慨なり認識なりは、ロマンティシズムであるかもしれない。


物理的な話。各次元は、余剰次元を薄く持っている。直線は、きし麺のような、あるいはうどんのような形態だが、通常は線だ。平面も厚みを持っている。
次元とは、質量を容れる容器の骨組みである。微小領域で重力で物体が接近し重心が重なりかけると質量を容れられなくなり、次元を高くして容れざるを得なくなる。この世界が三次元であるのは、その限りの質量総量であるからだ。全宇宙の質量総量には、質量が充分拡散しているので、次元が三で充分なのだ。ビッグバン寸前に限界最高次元が実現し、その後、次元の低下が始まった。散りきれなかった、重積したままの質量は、いまだに高次元微小領域に閉じ込められている。

反復強迫としての現在。健忘症によって過去と現在のかかわりが消されるので、止める根拠が見当たらなくなる。TAをこれに適用すると、健忘症を部分的にでも治療して小児期に戻り、決断のしなおしをするというのが再決断療法。精神分析では、経験が記憶の中で固定して、現在にその書き換えをもとめて、反復再生されてくる。

土居建郎いわく、心の病とは、心の中に本来あるもの(意識されてしかるべきもの)が、見えなくなっている(意識されない)状態。図と地の転換に関連する。地を図に転換できない=意識されない=見えない。

空椅子の療法により葛藤を解決するためには、坐るべき二つの対立者が分離され対象化されていなければならない。TAでは直接椅子に坐らず、それを眺める? あるいは、ゲーム化する?

カオスは対象として外部にあるのではなく、言語表現する寸前の、意図の塊りとして、内部にある。今まさに落ちんとするデューがカオスで、石に落ちて砕け散ったしぶきがシーニュたちだ。ソシュールはこのことを意識していたかどうか。切り取るというよりは、砕け散るのであり、なぜなら、前者ではあまりに実存主義的であるからだ。恣意的が一歩進むと実存主義的になる。実存的ではない、言語表現する寸前の、意図の塊りを、言語化するのは、誰でもが日々刻々やっていることだ。言葉を発する直前の、群れるカオスに対するむらむら感を、マロニエの木の根に対する嘔吐感に対比して表現してみると……


post coitum animal triste.(性交の後に生き物は悲しむ)
ではなく、
ante coitum animal triste.

日々を繰り返す者が、長期記憶を取り戻すと、つまり、歴史を獲得すると、歴史が繰り返すのを見るだろう。歴史が進歩してきた場合、そこに見るのは、過去の事実の再現ではなく、過去を繰り返す自らの愚かしさだ。歴史が退歩してきた場合、そこに見るのは、今に落ち込んだ自らの愚かしさだ。

一日単位であれ、数百年単位であれ、生命年齢単位であれ、地球年齢単位であれ、もしあれば、宇宙年齢単位であれ、繰返しが教えるのは、主人公の愚かしさだ。主人公は、人の場合もある、生命の、地球の、宇宙の、そして、存在の場合もある。

生命の進化は、個体数が増えるにつれて指数関数的に変異が増えるとすれば、加速的であるはずだが、現実はそうではない。極端な例が人類だ。
個体数は、数百年間で、指数関数的に増えたが、集団変異は一度もない(その報告はない)。生物的な変異がないとは、ハードウェアに変化がないということだ。それに対して、文明と文化の進化は著しく、長い間使われなかったハードを覚醒させても、容量不足になるのは時間の問題である。個体数の増加と、文明と文化の進化が、並行的に急激に変化している。この二者の相関は何を意味するか。どちらも右上がりと見なされるが、閉じ込められたねずみらが、数を増やすと、同性愛や共食いを始めるように、崩壊で自己防衛(人類が自己か?、文明と文化が自己か?)することになるだろう。

フロギストン説が、いまだ猛威を振るっている。愚かしさが静まるまで静まらない。この説が、愚かしさそのものかもしれないから。表現者自体であるかもしれないからだ。
それはともかく、パーティクルの多くがフロギストンである疑いがあり、しかし、個別に観測にかかる、かのように思われる。

根本的な問題からいつもはなれないでいる人間が好きだ。
たぶんこうかなという道をたどると、寒風吹きすさぶ、絶無の荒野、あるいは、数学的点にいたる。
であろうと、
そこから逆行して、今を享受しようと、
その行程をたどる人間は、やっぱり好きだ。私の同類だ。
ささ、この酒を、いまだけ、飲めよ! 今だけだよ。飲酒は勉強に、えらく障害になる。
じゃ、あなたは、などと、聞いてくれるな。もうさっき、本当のことを言っているのだよ。


いくら最新の科学的収穫に依存する論評であれ、その依拠するところが、どれだけもつか、知れたものではない。
科学に依拠しない発言は、比喩と文学を許せるのみであって、そこにすべての悪習が収束するだろうが、それらもやがて滅びる。
それは、我々自体の、滅びでもある。

何故、私は、自然科学に携わる人たちに、甘いのか。その帝国主義的なのぼせ上がりを批判的に見てきたはずなのだが。突破口は、そこにあるか、あったとして、だが、私達は、その口を抜けられるだけの論理と実証の力を持っているか?
科学の業績を実社会に適用する場合に、社会そのものを脅かす場合がある。リーマンショックと、フクシマを見よ。実際の適用者は謝罪したか? 今まで儲けた富を吐き出したか?

母性愛が宗教の源泉である。生命連鎖の基でもある。男が宗教に関わりあう場合、女性的な部分に依拠していない場合には、自己処罰的犬儒主義、マゾヒズム、あるいは、権力意識を背景に持つ政治的功利性に、モティヴェイションが潜んでいる。

母は、東京に行ってらっしゃい、大舞台で勝負をしなさい、と願う。別れたくないが、邪魔をしたくはない、迷惑をかけたくもない。どの母も、自分の不幸を誰にも言わない。子育ての結末だけは残したくない。悲しみが温存されてしまうだろうからだ。私には私の生活があるのだからとクールに振舞うようになる。他人行儀になってきたと愚かな君は母を責める。そういう君を母は見て少し嬉しがる。

ママンが死んだ。
ニックネーム ドリフターズ at 04:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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